どこへでも行けるということは容易く手に入る自由のひとつだった。
いまはこの自由を嚙みしめる。それとも、ぎこちなく考える。新しい技術が遠くの人をつなぎ、距離を等しくし、一瞬で多くの人々をフラットにし、あり余る情報が手に入る。それはこれから私たちにどんな風景を見せてくれるのだろう。
かつて、インデアンの子どもは限られた道具を手にひとりで切実な旅に出た。夜は息ができないほどの漆黒の闇に包まれ、凍える。誰とも出会わず、風の音や生き物の鳴き声に耳を澄ますだけだ。そこで生涯の自分の守護霊と出会わなければならない私は彼らほどには孤独ではなく、この世界を甘受できるほどの力には乏しく、守護霊と出会うことはできない。だから何度でも行き来し何度でも読み返す。互いのかかわりの中に手掛かりをつかみ、理を見つけようとするだろう。
これまでになく、距離と時間について思っていた。ひとりでどこか遠くの知らないところへ行こうとするときの、あの染み入るような感覚はなんだったのだろう。それは距離なのか、時間なのか。それとも反応なのか、と。
2020年、この年の時間の流れはいつもと違っていた。時間は流れたのに歩いたという身体的な実感がない。ゆっくりと歩むときに出会う風景の、匂いを嗅ぎ、音に震え、流れに抗おうとするあの感覚がまだ、ない。
もう少しの間、ゆっくり歩いて行みよう。いまはこの大切さを君たちと噛みしめる。