「これだ」と思うものが見つかるまで、目の前の課題に向き合いつづける
武田鉄平(画家)
「みる」こととはなにか? 視覚伝達デザイン学科では、その知覚の根源から問い、学んでいきます。そしてその問いを、絵画を通して鑑賞者に知覚させながら投げかけるのが、画家の武田鉄平さんです。大学を卒業後、デザイナーとして働いたのち、およそ10年にもわたる試行錯誤を経て自らのテーマを見出した武田さん。視デでの学びは、現在の活動にどのように活かされているのでしょうか。今回は武田さんと同級生であり、今も親交が深い中野豪雄教授(プロフィール)が聞き手となり、学生時代から独自の制作スタイルを見出した現在に至るまでのこと、取り組んできた仕事などについてのお話を、特別対談としてお届けします。
武田鉄平 Teppei Takeda
画家。1978年山形県生まれ。学部卒業後、サイトウマコトデザイン室に入社、師事する。2005年に帰郷。2016年に開催した初個展「絵画と絵画、その絵画とその絵画」(KUGURU/山形)は大きな話題を呼んだ。作品集『PAINTINGS OF PAINTING』/ユナイテッド・ヴァガボンズ刊行。
目次
出会って26年。アトリエで振り返る、これまでのはなし
中野豪雄(以下、中野) 武田くんのアトリエ、初めて来た。窓からの眺めも良くて、自然豊かないい環境だね。
武田鉄平(以下、武田) そうね、公園が近いから散歩するのにいいし、春には桜も楽しめるし。
中野 窓の反対側にFlowerシリーズの作品がずらりと飾られているのも、華やかでいいね。
武田くんといえば、一見大胆なブラシストロークで描かれているようで、実際はその絵の具の厚みまで含めて非常に精緻にフラットに描かれているポートレイト作品『絵画のための絵画』が有名だけれど、一体なぜ、花を描くようになったの?
武田 子どもができたのがきっかけかな。共働きで日中妻は働きに出ているし、僕のアトリエは自宅も兼ねているから、子どもが保育園に通うまではずっとここで子どもの面倒を見ながら仕事していて。30分に一度は泣いてあやしてだから、あんまり制作に集中できる時間がなかった。今思えば、完全に休みにした方が良かったかなとも思うけど。
中野 そういえば、前にも育児と仕事の両立について相談してくれたよね。今はだいぶ楽になった?
武田 そうね、保育園もはじまって少しずつ楽になってきた。大型のポートレイト作品にも取り掛かりはじめているし。
中野 Flowerシリーズとポートレイト作品で、キャンバスの大きさが全然違うけど、制作期間はどれくらい違うの?
武田 Flowerシリーズは1週間くらいで、ポートレイト作品は1、2ヶ月くらいかな。
中野 制作のプロセスはポートレイトと同じ?
武田 そう。最初にスケッチとして小さく絵を描いて、それを俯瞰した写真を撮って、パソコンに読み込んで、デジタルで解像度とかを調整して、その画像をベースにキャンバスに描いていくという流れだね。
中野 武田くんは学生の頃から、自分で改造PCをつくるくらい詳しかったよね。だけど技術に特化していくことはせず、ナチュラルに絵の具と筆と同等のツールとして扱っているイメージがあって、それが今の作品のプロセスにも組み込まれているんだね。
武田 そうかもしれない。絵を描く一連の作業の中に編集作業があって、デジタルの方がやりやすいから使っているという感じだから。
中野 ということで、今日は「クリエイティブと学びのつながり」というテーマで話を聞くけれど、武田くんとは長い付き合いとはいえ、卒業後に連絡が途絶えた時期もかなり長かったから、改めて色々と聞かせてもらえたらと思います。
武田 はい。がんばります(笑)。
武田鉄平という人は、異端児で、孤高の存在だった
中野 僕と武田くんは、入学してわりと早い段階で仲良くなったよね。武田くんは現役で入学したにも関わらず、当時から他の人とは一線を画す老成した雰囲気があったから、周囲からは「巨匠」って呼ばれていた。その頃から画家になりたかったの?
武田 もっと前からだね。中学生の頃には自覚的に絵を描いていたから。父親が芸術家を目指していて、それが家族の問題でもあり、そこで生まれた反発心が、僕が作品をつくりつづける原動力になっていたと思う。
中野 画家志望であれば、油絵学科を受けるという選択肢もあったと思うけれど、なんで視デに入ろうと思ったの?
武田 芸術は教わるものじゃないと思っていたから。自分がやりたいことと全く違うことができる環境の方が、学べることが多いんじゃないかと思って、学力もそれなりにあったから視デを受験したら、たまたま受かった。視デの4年間はこんな授業もあるんだという驚きもあったけれど、「みる」ということの本質について学べたし、チームでなにかをつくることも体験できて、楽しかったね。
中野 ちなみに、どんな授業が印象に残ってる?
武田 1年生の時に受けた大町尚友(※1)先生のタイポグラフィの授業かな。文字を扱う前に、基本的な図形を使って視覚調整をするのが面白かった。たとえば十字の調整では、同じ太さの線を十字にクロスさせたとき、数値的に中央に合わせるとなぜか真ん中にあるように見えないけれど、横線を少し下にずらすと肉眼では中心にあるように見える。繊細な調整が求められたことで、視覚調整の基礎力が培われたと思う。
中野 懐かしい。大町先生が教えていた頃は、Helveticaなどの既存の書体をお手本に、手描きで真似して再現するということもしていたよね。
武田 もうひとつは、3年前期の「ちいさな夏休み」という、及部克人(※2)先生が担当していた造形演劇ワークショップの授業。半年かけてチームで協力しながらワークショップをつくりあげていくプロセスがすごく新鮮で、あまり多くの人と関わらずに生きてきた僕の人生の中では、とても特殊な時期だった。
中野 武田くんにとっては、社会性を身につける時間でもあったんだね。
武田 そうそう。そこで泣いて笑って、毎秒がダイジェストと言っていいほど濃厚な時間をみんなで過ごしたことで、ギリギリ社会性が備わったというか(笑)。「ちいさな夏休み」って、僕らが企画したワークショップに実際に小学生が参加するから、デザインの影響を受ける対象がリアルに存在しているんだよね。しかもただ組織的にワークショップをつくるだけじゃなくて、ゼロからチームをつくっていくような授業だったから、及部先生に引っ掻き回されてすごく遠回りをしながらも、最終的にチームができあがってワークショップも形になっていった。そういう実践的な試行錯誤もすごく学びになったと思う。
中野 ちなみに僕の記憶では、武田くんのパッケージデザインの課題で出した作品が印象に残っているんだよね。手の形をしたサイケデリックな配色の箱をつくってきて、指の関節ごとにある小さな引き出しにお米が入っているっていう。しかも入っているお米の量もちょっとずつ違う。あのパッケージデザインの枠にはまらない作品にはすごいびっくりさせられたんだけど、当時は何を思ってつくっていたの?
武田 うーん。自分の中では納得していたし、ただ楽しいと思ってつくっていたね。
中野 きっと、周囲と比較して相対的に自分のポジションを見ることに関心がないんだろうね。僕も含め、学生の頃は周りの人の作品を見て、自分のものと比較して、自分の方が優っているとか劣っているとかを考えがちだった。そこからいかに外界のノイズを遮断しながら、自己批判や自己修正する力を身につけていくけれど、武田くんには最初から自分の作品の良し悪しを自分の中で判断する観点があった。だからこそ、一緒にいてもなにを考えているかわからないような異端児であり、孤高の存在でいられたんだろうなとも思う。
武田 たしかに、これを出したら周りがどう思うかまでは考えていなかったと思う。
中野 だからといって全く人を寄せ付けないタイプでもなくて、学生時代はよく武田くんの家に集まって、夜な夜なグラフィックデザインについて議論をしたり、音楽やカルチャーについて共有しあったりしていたよね。武田くんは決して熱弁をふるうようなタイプではなかったけれど、しっかり話を聞いてくれたし、時々で出てくる言葉に「いかに自分の確固たる表現をつくっていくか」という信念が垣間見えて、熱く語りあえたという記憶がある。卒業制作でも巨大なサイズのポスターを5枚ぐらい印刷して、ロシアアバンギャルドやカッサンドルを彷彿とさせるような、60年代のアングラの空気感を現代的に解釈した赤と黒だけで構成された力強い作品だったよね。あの時の作品はまだ持っているの?
武田 そんなに覚えていないでほしい(笑)。今の作風になる以前の作品はないな。写真にも残していない。地元の川で燃やすのが習慣になっていて、定期的に燃やしていたからね。
中野 潔い(笑)。僕らが学生だった頃は、今の視デをつくった勝井三雄(※3)先生がゼミを持っていた頃で、武田くんの卒業制作について話す2人の会話が、第3者である僕からすると全然よくわからなかったんだけど、武田くんと勝井先生の間では通じ合っていたのも印象的だった。
武田 勝井先生が意図を的確に汲み取って、こういうところが面白いよねと言語化してくださって。でも僕は言語化が苦手だから、プレゼンテーションの時はうまく逃げていたけれどね(笑)。
※1 大町尚友(1941–2017) 42年間にわたりタイポグラフィ教育を行なってきた人物。2012年に視覚伝達デザイン学科の非常勤講師を退官。
※2 及部克人(1938–) アートワークショップをデザイン教育の分野に持ち込んだ第一人者。2009年視覚伝達デザイン学科教授を退官。現名誉教授。
※3 勝井三雄(1931–2019) 戦後から半世紀以上にわたり日本のグラフィックデザイン界を牽引してきた人物。現在の五感や身体性を重視した視覚伝達デザイン学科の教育体系をつくった。
作品の良し悪しは自分で決める。作風を見つけていった空白の10年
中野 卒業後、僕は勝井三雄事務所に入って、武田くんはサイトウマコトデザイン室に入ったよね。当時仕事をしていて、印象的だったことはある?
武田 僕がサイトウマコトデザイン室にいた2000年代初頭は、サイトウさんが本格的にグラフィックデザイン以外の活動を始めようとしていた時期だったんだよね。だからグラフィック作品はあんまり手がけていなかったんだけど、一度だけポスターをつくることになって、コピーした素材を紙の上に置いて、それをじっと見つめた後、ものの30分で作品を仕上げたの。「かっこいいなぁ」って痺れたね。そして3年くらい働いて、「自分にもできる」って自信がついたタイミングで芸術家を目指すために辞めました。
中野 武田くんは山形に帰郷して作風を確立したわけだけど、2016年に個展を開催するまでのおよそ10年間は、僕も仲の良かった同級生もほとんど連絡を取っていなかったから、武田くんがどんなことをしていたのか知らなかった。まさに「空白の10年」だったんだよね。この期間、実際には何をしていたの?
武田 実家がホテルを営んでいたから帰郷して、そこで番頭の仕事をしながら空いている時間に絵を描いてという生活をしていた。それと並行して、一時期は東北芸術工科大学で樹脂や木工を学んだり、大学の敷地内にあるこども芸術大学という保育園で専任研究員としておもちゃをつくるプロジェクトに携わっていたりもしたね。
中野 ちなみに、今の作風が確立する前は、なにも作品を発表しなかったの?
武田 うん。その時やってみようと思ったことをとにかく試していって、これだと思うものが見つかるまで燃やすことを繰り返していた。
中野 トライ&エラーを何年もひたすら続けていたと。今の作風にはどうやってたどり着いたの? 手が動いたのが先だったのか、思考が先だったのか。
武田 手が動いたのが先だった。もともと小さいドローイング作品をつくることが多くて、それを俯瞰して眺めていた時に、ふと「今見ているものを絵にしたら、おもしろいんじゃないか」と閃いて。そこから作品を描きためるようになって、山形での初個展に至ったっていう。
中野 当時は東京のデザイナーの間でも、「山形ですごい展示が開催されている」と話題になっていて、誰かと思ったら武田くんだったからすごく驚いた。その作品を見てみると、バランスを崩しながらも安定しているような絵づくりとか、クリアな色のコントラストとか、ポートレイトを描いていることも含めて、そこに師匠であるサイトウさんの作品の面影もほんのり感じたんだよね。
武田 サイトウさんからはたくさんのことを学んだから、影響はもちろん受けていると思う。視デで学んだことも、サイトウさんの事務所で働いたことも、僕の中では欠かせない経験だった。
問いかける「絵画をみる」ということ
中野 武田くんは、何年もの間黙々と表現を模索して38歳で最初の個展を開催し、そこから一躍して日本を代表する現代アーティストになるという、本当にドラマチックな人生を歩んできた。そのぶん、最近は人前に出て喋ることを求められるようにもなってきたんじゃない?
武田 普段はギャラリストの方に意図を読み取ってもらって言語化してもらうことが多いし、インタビューではなんとなくお茶を濁してしまいがちだけれど、僕自身ももっと美術史的な側面から自分の作品がどういう立ち位置なのか言えるようにしなきゃとは思っているね。
中野 たとえば?
武田 写真技術ができる前後で古い絵画と新しい絵画を分けるとしたら、古い絵画の役割は見えるものを描写することだった。そういった絵画と写真の境界で、写真そっくりの絵を描くフォト・ペインティングなど古い絵画をいまだにやっている存在がゲルハルト・リヒターだと位置づけると、僕はリヒターの少し後ろにいる存在なのかな、とか。
中野 なるほど。たしかに武田くんの作品は、その時、その場で知覚するという一回性の経験を写真に代替えしつつ、さらに拡大解釈をして再構築している。だからこそ、実際に絵画の前に立って自分の目で見て、その裏切りが視えないことには、本当に「絵画をみる」という経験をしたことにはならないと痛感させられるんだよね。特に近年はSNSやWebメディアが発達していて、そこに掲載されている作品を見ただけで、「みたことがある」「知っている」という気になりがちだからこそ、強烈な問いかけになっていると思う。
武田 だからこそ、描くときは「そうみえる」ように取捨選択をしていて、そこでもやっぱり、視デで視覚調整を訓練したことやデザイナーとして仕事をしてきたことが活きているなと思う。
中野 武田くんにとって、思い入れのある作品はある?
武田 勝井先生が亡くなる直前に描いた絵かな。「鉄平の表現を生きているうちにみたい」という手紙をもらって、忙しい時期だったけれどなんとか描き上げて、病院まで行って作品を見せにいったんだよね。
中野 勝井先生も嬉しかっただろうね。
クリエイティブと学びのつながり
中野 武田くんのアトリエにいると、ドローイングや画材、覚え書きのメモ、読んできた書籍や聴いてきたレコードの山が目に入ってきて、作品を完成させるまでにたくさんの気づきや思考があったことがわかる。だけど武田くん自身は、すべてを言葉にしないじゃない。単にプレゼンが苦手というのもあるかもしれないけれど、言葉に頼らずに素直に表現を追求し続けたからこそ、言葉なくして納得させられる表現に到達できたのかなと、今日話を聞いていて思いました。
最後に、これから視デで学ぼうと考えている人に向けて、メッセージをお願いします。
武田 振り返ると、これまでの経験は、今の僕の思考や作品に確実に影響していて、自分のアイデンティティになっていると感じます。視デで経験したことが、何年も経ってから「役立っている」と実感することも多々あります。これから学生になるみなさんも、自分の好き嫌い、面白いと思える・思えないに関わらず、誰と比べるでもなく、まずはなんでも吸収してみようという気持ちで、目の前の課題に頑張って取り組んでみてほしいですね。もっとも、大学時代の一番大きな出来事は妻と出会えた事なんですけどね。